2024-08-30

 このBLOGを書き始めて20年目になる。

ムーバブルタイプを試みてもいろいろとめんどうなので手軽なこのBLOGにしたのだが、やはり継続して投稿するのはむつかしいものだ。

そもそも書く動機がすっかり変化してしまった。

生活環境が変化したといえばそれまでだが、リタイアして初めて気づくことが多い。

いつまでも時間があるという感覚がやがて消えゆくように変化している。

2011-12-18

絆と意味と質量

今年の漢字は「絆」ということになった。
そして、このほどヒッグス粒子が発見される可能性が高まったという報道に接した。門外漢の私としては何か分かりやすい説明がないものかと探していたが、この長谷川さんの説明が素人には非常にわかりやすかった。
そこで、これを見て感じたこと。
質量の生まれる過程にはヒッグス粒子がかかわっているようだが、その経緯は対称性の破れにあるそうでマンガの記述が秀逸。以下その記述。
物理学者がたくさん集まったパーティー会場で、人々は近くの人々と静かにおしゃべりをしている。
• 物理学者がヒッグス粒子に対応している。おしゃべりが、相互作用に相当し、起こったり起こらなかったりしている。
パーティー会場に高名な物理学者が入って来ると、周りに人々が集まってくる。高名な物理学者は、動きにくくなる。
•高名な物理学者が素粒子に対応。
•動きにくくなる→質量を持った。
パーティ会場に「噂」が流れる。「噂」の周りに人集りができる。人集りは動きにくくなる。
ヒッグス粒子が自分で集まり(自己相互作用)、質量を持つようになる。
真空は、何もない空間ではなく、ヒッグス粒子が満ち溢れている。
• 素粒子は、ヒッグス粒子と相互作用することによって、抵抗力を受ける。
→ 質量を持った!!
つい先日読了した小坂井敏晶「民族という虚構」の記述とのアナロジーがおもしろい。
以下その記述。(219ページ)
間は音声の単なる欠如ではなく、各音声は孤立した音声を持たない。個々の音声を変質させる力としての間が作用して初めて、音楽や芝居という複雑な意味世界が成立する。同様に、各個人が自律的に完結し、外に対して閉じた存在であったならば、個人をいくら集めてみたところで共同体は生まれ得ない。人間が本質的に欠如を内在する関係態だからこそ、あるいは他の言い方をするならば、人間には本質なるものがそもそも存在しないからこそ、他の生物とは比べものにならない複雑かつ多様な共同体が成立する。欠如や不完全を否定的角度から捉えるのはやめよう。不足のおかげで運動が生まれ、変化が可能になる。この章では、集団責任が依存する論理の検討から始め、共同体の絆は契約のような合理的発想では説明できないことを明らかにした。







2011-11-04

デュティランボス

デュティランボスとはウィキペディアによると以下の説明がある。
古代ギリシアの讃歌のこと。元々はディオニューソス神を称えるものだった。その熱狂的な性格はしばしばアポローン神への讃歌(パイアン)と対比される。ディテュランボスは最高50人の成人男子または少年からなるコロスによって歌われる。コロスは輪になって踊り、確かな証拠はないが、当初はサテュロスの扮装をしていたものと思われる。
中西進「古代史で読む万葉集」で柿本人麻呂の歌につき次のような記述があったのを見て、コロスを想い浮かべ、類似点が気になっていた。今日、Facebookで脳科学者、医師の本田学さんのノートを読んでまたヒントをもらったような気がして、ますますその思いを強くした。

そのフレーズの一部
脳の仕組みを活用する作戦は、現存する「宗教」すべてに当てはまるものではないかもしれない。しかし、かなり大多数の宗教が、絢爛豪華な視空間情報や音響情報を活用した何らかの宗教儀式のプロトコルを具えている

そして、中西さんの記述は以下の部分
殯宮(もがりのみや)の儀礼とは哀哭(みね)をたてまつり、歌舞を奏し、誅(しのびごと)をつぎつぎに読み上げるものだ。歌は、この時代に誅のような形式で儀式の後に誦詠されたものであろう。この殯宮挽歌は先にも後にも例のないもので、天武朝以降の葬送の典礼の整備と密接に関係をもっている。人麻呂はその死の儀礼の歌人であった。
また、この殯宮挽歌は参列者集団の意志において行われるために、必ずしも個人的感情だけで詠嘆するものでもない。だからかつての葬送に歌われた歌も謡われ、人麻呂が口にしても他人の作であったりする。このような集団性はこのおりの歌の詠唱の仕方とも関係があり、葬送者一般も人麻呂とともに詠唱に加わる場合が想像される。たとえば倭建命(やまとたけるのみこと)が死に際して歌ったものとして、古来大切に伝えられてきた挽歌は、この時代にもおよんで天皇の葬送に歌われたようである。むしろ人麻呂は個人的過ぎたのであって、集団歌である挽歌を、歌人という立場によって個人的文芸に転換せしめる結果ともなった。従来個人の資格において挽歌を献るのは、天皇の葬送にのみ限って、その後宮の女たちが歌うだけだったのだから。(以上は122ページ~123ページ)
吉野の歌においては分化すべき自然が人間と融在していることをしめす。そこにまた、ひとつの人麻呂の感受の仕方がある。(中略)吉野は清き河内なのだが、またかくのごとき天皇の行幸を得て、そのことが吉野を「清き土地」とする。という論理がある。「清し」という万葉のことばは、単に清浄感のみならず、神聖なる感情をあらわすもので、天皇の行幸にともなって用いられることが多い。これは人事による自然の所有だった。人麻呂は、それが神なる日の皇子の資格によって可能だったと考えた。
この信念を考えないと、軽皇子従駕の歌も解くことがむずかしいだろう。この歌は軽皇子の都から安騎野への道行きを述べ、
 み雪降る 阿騎の大野に 旗薄(はたすすき) 小竹(しの)をおしなべ 草枕 旅宿りせす 古(いにしえ)思いて
(雪が降る安騎野に薄や篠竹を敷いて旅宿りをなさる。昔のことをしのんで)
と結ぶものだが、単なる懐旧の情という以上に、この地がかつて軽の父草壁の遊猟の地であったことが、人麻呂をして、土地そのものが草壁であると感じさせているのではないか。少なくとも他の行幸従駕の歌の例にしたがうかぎり、ここは山川をあげて天皇に奉仕する「清なる」地であり、猪鹿(しし)も鶉(うずら)も、また降る雪も、そのことごとくが奉仕するというのである。
昔から日本の文芸には、「道行き」と称する、地名をつぎつぎにあげていく手法がある。何のためにこのようなことが行われるのか。リズミカルな効果をねらった技巧だと考える以外にない。
黒人(高市黒人たけちのくろひと)は近江京の荒廃を、「国つみ神のうらさびて」荒れたと嘆いている。人麻呂にもこのような古来の信仰が働いていたはずだ。そしてまた、彼は、神なる日の皇子が自然を領有すると信じていたのだろう。(以上は138ページ~139ページ)

2011-10-20

科学者と哲学者の社会的責任

もう40年も前から馴染んでいるベルグソンが83年前の1928年にノーベル賞を受賞していたのを3日前にはじめて知った。そうだったのかという気持ちを持つとともに、なんだかベルグソンの思考が俗化されていたようでちょっと残念だった。彼が生前に残した最後の論文集とも言うべき「思想と動くもの」を読んでいると、現在のホットな話題である科学者の社会的責任や教育について既に83年前にきちんと指摘している。われわれはもっと冷静に考えなければならない。以下岩波文庫河野与一訳から引用。
「普通、人が困難な点について専門違いの人に意見を求めにくるのは、それらの人がまったく別の事がらに関する専門によって名声を得ているからである。こうして人は、事物を研究したことがなくても事物を認識することのできる普遍的な能力、単に社会生活に有利な概念を会話において操る習慣でもなく精神の数学的機能でもなく社会的な幾つかの概念をたがいに器用にもしくは不器用に結合して事象的なものの認識を得るというある能力にすぎない「悟性」が実在するという思想を、これらのいわゆる専門家に対して褒めあげ殊に民衆の心に確信させる。この優秀な手際が、精神の優秀性をなすものとなる。ところが、真の優秀性はいっそう大きな注意の力にほかならない。この注意は必然的に特殊化し、言い換えると本性もしくは習慣によって、ほかの対象よりもむしろある対象へ傾くのである。この注意は直接な視覚、単語のヴェールを突きとおす視覚であり、事物についてあれほど容易にものを言わせるのは、事物に対する無知そのものである。ところが私は、科学的な知識と技術的な専門を主観的な視覚と同様に尊重する。私は、物質的にも精神的にも創造し、事物を工作し自分自身をも工作するのが人間の本質だと信じている。「工作人(ホモファーベル)」というのが私のもちだしている定義である。「叡智人(ホモサピエンス)」(人類)は、工作に対する「工作人」の反省から生じたもので、純粋な悟性にのみ依存する問題を純粋な悟性によって解決するかぎり、同様に尊敬に値するもののように思われる。それらの問題の選択に当たって一人の哲学者が誤ることがあっても、ほかの哲学者がその誤りを訂(ただ)すであろう。二人とも全力を尽くして仕事をする。二人とも、私の感謝驚嘆に値することができよう。「工作人」「叡智人」、この二つはとかく混同されるものであるが、私は両方に頭を下げる。私に反感を起こさせるただ一つのものは「言語人(ホモロクワクス)」であって、それが考えるときもその思考は自分の言葉に対する反省にすぎない。」(125ページ)
「私が真の哲学的方法に目を開かれたのは、内的生活のなかに初めて経験の領域を見出した後、言葉による解決を投げ棄てた日である。その後のあらゆる進歩はこの領域の拡大であった。論理的に結論を延長し自分の研究の範囲を事象的に拡大せずに別の対象に適応することは、人間の精神に自然な傾向であるが、けっしてこれに負けてはならない。哲学が純粋な弁証法すなわち言語のうちに蓄蔵されている要素的な認識をもって形而上学を構成しようという試みである場合には、素朴な態度でそこに屈服する。哲学は、ある事実から引き出したある結論を残りの事実にも適用しうる「一般原理」としてもり立てる際にも、絶えずこれをおこなっている。この哲学のやり方に対して、私の哲学的活動の全部は一つの抗議であった。」(133ページ)
これらの記述を見ていると、彼が主張していたことは周囲の科学者、哲学者すべてから否定され、無視されていたという印象を持つ。現在100年近くたってもこの単純なことはおそらく大方の科学者、哲学者から否定され続けるのだろう。プラトンやアリストテレス、ニュートンやアインシュタインの力が強大で抗いがたいものであるという事実を改めて実感としてかみしめている。
彼はまた、「言語人」を養育するのではなく、子どもの手が自然にものを作ることである「手工」の意義を強調している。その試みに力を貸し、少なくともその機会を与えることの重要性を論じている。これこそが教育の真髄であろうという気がする。

2011-02-13

考えていることの重複

最近6ヶ月くらいの間に読んだ本はひとつの大きなテーマに沿った一連の本でどこかでそれぞれの書物を読んだ感想と抽出した問題を書き上げておかないと忘れるなと思っている。それぞれの著者同士は一部だけが互いに知っているようだが、どちらかというとそれ以外は互いを意識することなく書いているので一見すると関連が無いようにも思えるが私には同じテーマを追っているように思える。
それらの本とは読んだ順に①形の生物学(本田久夫)②歴史としての生命(村瀬雅俊)③構造主義生物学とは何か(池田清彦)④構造主義生物学(柴谷篤弘)⑤創造的進化(アンリ・ベルグソン)であるが、著作順は古い順に⑤1907年③1988年④1999年②2000年①2010年の順である。問題の著作の存在に気がついて遡っているうちに最も古いベルグソンの著作にたどり着いたという気がする。
あらためて私の関心事の中心的な部分をベルグソンが占めていることに気がついた。特にこの著作(創造的進化)の強調している人類の持つ認識装置にかけられた抗いがたいバイアスについての議論が私には非常に魅力的だ。これらはもう少し遡れば西洋理性の源泉であるプラトンやアリストテレスにたどり着くのだろうが、1000年以上人類の気づかなかったことを指摘しているように思える。根気と冷静さが一段と求められる話ではあるが、この思潮を大切に育てていくと人類の抱えている問題の多くの部分は解決していくように感じている。具体的な感想は順次ここに記述していこうと思っている。

2011-02-03

他者とのコミュニケーション、記録

人類の記録は文字が発明されるまで、身体性をともなった身振り、踊り、うた、祈りなどを経て主として口頭での伝承、芸能などへと集約されていったと思われる。この間は音声が優位にあり、呼びかけの要素が強かったに違いない。併せて視覚が他者の存在を主体的に観察する手段として発達してきたと想像される。
そして、ひもや石による文字の発明は記憶を受動的無意識の世界から意識化し、一気に視覚優位の現在に至る人類の文化が花開いたのだろう。紙の発明や印刷術がこの傾向を強化し、現在に至る文明の骨格にある知識の共有化が図られてきた。
20世紀に入り、ノイマンの発案による技術は人類の認識装置の奥底にある限界をあぶり出し、デジタル革命をもたらした。人類は聴覚にしろ視覚にしろ、生命の持つ連続した感覚の特性を獲得できないという限界をいろいろな生得的な道具で、これまでだまして認識に使用してきたが、ここへきてこのデジタル化で限界が露呈してきた。
人類が動物として、生命として獲得できる情報の技術はおそらく言葉や文字(書かれたもの)が最後でこれがすべてだろう。音楽や絵画はこれを補完する本来あるべき他者とのコミュニケーションの重要な突破口なのだろうが、言語を超えるものは見つかっていないし生物としての人類は新しい手段を獲得できないだろう。
文学の可能性はセマンティックな分野でひとつの人類だけに残された可能性かもしれないが、あまり期待できない気がする。あとは自然の力による人類という怪物の進化だけがたよりだが、想像がつかない。
「昭和史の一級史料を読む(保坂正康、広瀬順皓)」を読んでいて、口頭伝承の重要性を再認識するとともに、民俗学、考古学を超える手法の見当たらない現状に人類の限界を感じた。これからのデジタル時代はおそらく電子化された情報も胡散霧消して後の世代には何も残らないだろう。今回のエジプトのインターネット切断が数日でほぼ完全に実施された現実を前にして、統合された電子社会の真の恐ろしさを肌で感じた。

2010-03-20

内と外(6)

内と外に関してほぼ40年ぶりに再読した「時間と自由」(「意識に直接与えられたものについての試論」アンリ・ベルグソン)の記述に改めてこの問題が中心的問題として論じられていることを発見した。
強度と多様性に関して論じている箇所から引用。
強度の概念は、研究されているのが外的な原因を表象するところの意識状態であるか、それともそれ自体で自足した意識状態であるかによって、二重の相のもとにその姿を現す、と。前者の場合、強度の知覚は、原因の大きさを結果の何らかの質によっていわば算定することに存していて、スコットランド学派のひとたちの言葉で言うと、これは習得的知覚である。後者の場合、われわれはある根本的状態の只中に見分けられる単純な心理的諸事象の多様性の大小を強度と呼ぶ。これはもはや習得的知覚ではなく、錯雑な知覚である。もっとも、知覚というこの語の二つの意味はきわめてしばしば相互に浸透し合っている。なぜなら、一方ではある情動や努力が含むより単純な状態は概して表象的であるし、また表象的状態の大半は同時に情緒的でもあって、それ自身のうちに、基礎的な心理的諸事象の多様性を包摂しているからである。つまり、強度の観念は二つの流れの合流点に位置しているのだ。すなわち、外部から外延的な大きさの観念をわれわれにもたらす流れと、内的多様性のイメージを意識の深みに迎えに行って、それを表面へと導く流れとの合流点に。(同書83ページ)
また、心理的決定論を批判した中では次のように述べている。
ある姿勢の表象は意識の中では達せられるべき別の目的のイメージに結びついていると言うべきではなく、むしろ、幾何学的には同一の姿勢が当人の意識に対しては、表象される目的に応じて様々な形で現れるというべきだろう。連合主義の誤りは、遂行されるべき行為から質的な要素をまず除去したうえで、そこから幾何学的で非人格的なもののみを保持しようとした点にある。その場合、このように脱色された行為の観念を他の多くの観念から区別するために、何らかの種差をそれに連合せざるをえなくなったのだ。ただし、この連合は私の精神を研究するところの連合主義哲学者の産物であって、私の精神そのものの産物ではない。(180ぺージ)
連合主義者は自我を数々の意識的事象、感覚、感情、観念の寄せ集めへと還元する。しかし、連合主義者がこうした多様な状態のうちに、それらの名が表現するより以上のものを見ないとすれば、また、これらの状態の非人格的な相しか保持しないのであれば、たとえ彼がこれらの状態を無際限に併置したところで、幻影としての自我、空間のうちに投射された自我の影以外のものを手にすることはできないだろう。仮に連合主義者が、これとは反対に、これらの心理的状態を、それが一定の人格においてまとう特殊な色合い、-それは他のすべての状態を反映することで各々の状態に到来するーとともに捉えるならば、その際には当の人格を再構成するために複数の意識的事象を連合する必要はまったくない。というのも人格は、それを選ぶ術を知ってさえいれば、これらの意識的事象のなかのひとつのうちに全面的に存しているからだ。そして、この内的状態の外的顕現こそ、まさに自由行為と呼ばれるものであろう。(185ページ)
この翻訳では180ページの脱色という表現に思わずうなった。まさに脱色だ。

2010-01-18

世代間闘争

大塚英志と東浩紀の対談集「リアルのゆくえ」を読んで改めて世代間闘争の現実性に慄然とした。
これまでに社会的事件を引き起こした様々なおたくとオタク。これらは団塊の世代のあと表に現れるときは社会的事件として不可解な当事者の言動の報道と言うかたちでしか理解されていない。しかしながらこの二人の対談を通じて明らかにされていることは紛れもない現実の社会の動き、底流に流れているようだが老人やマスコミが気がついていないだけで既に大きな流れとなっている思潮といえる。
特に東アジアと欧米の身体的反応の相違に関する指摘などは不気味な流れを想起させる。日本に発する漫画文化の力は今や世界の思想界を動かすまでになっているのかと改めてその力の大きさを再認識させられた。
対談を通じて気になったのは東浩紀の鋭い感受性だが、その感受性は現実への処方箋をどの程度備えているのだろうかということであった。大塚ではないが非常に心配な気持ちになる読後感であった。

2009-12-05

内と外(5)

田中史生「越境の古代史」を読んだ。
これこそ歴史教科書だという気がする。記述が生きている。
何よりも表面的な日本の歴史にこれまで登場しない様々な人物がいきいきと見えるのはなぜだろう。
著者も導入部で述べているように、まさしく内なる日本という国家概念がまずありきで記述される歴史ではいかに味気ないものかがこの書物を読むと実感される。
内と外の記録の照合という単純な作業を愚直に行い、現地で事実を確認することがいかに説得力のあるものとなるかというすばらしい見本だろう。
日本の学問の水準がこうして中国、韓国などの学者との交流を経て充実していくのはわくわくするような期待をもたせる。真実はひとつだし、確認できる事実は少ないが、しっかりと地に足の着いた学問というのは着実な成果を挙げるものだということをこの書物は示してくれる。

2009-11-24

物々交換

モース「贈与論」を新訳で読んだ。
物々交換に関する洞察は幅広く、表面的に物々交換と見ている分析も、実は物々交換などではなく贈与の体系として経済生活、部族生活、道徳生活のすべてに行きわたり、浸透しているということが見えてくる。この見方によると生活は永遠に与えることと取ることである。これらは事例を特定の部族に限定して採用しているが現代のわれわれの生活の根底にその思想は残存している。いや残存でなく、これらの体系が現代の経済、道徳を支えている。これを見ていると、経済学者の議論が浅薄に見えてくるから不思議だ。全体性の魔術ともいえるだろう。さまざまな書評にも書かれているが、この書物は限りないインパクトを与える力を秘めている。

2009-08-04

詩に対する批判とその解決

詩に対する批判としてまず、詩作の技術そのものとの関連において解決しなければならない批判がある。
アリストテレスの「詩学」第25章からの引用
「不可能なことが詩につくられた、これは誤りである」といわれる。しかし、不可能なことを詩につくるのは正しいことである、もしそれによって詩作そのものの目的-その目的については既に述べた-が達成されるなら、すなわち、もしそれによって当の部分または他の部分がいっそう人を驚かせるものとなるなら。その一例は、「イーリアス」におけるヘクトールの追跡のくだりである。
「イーリアス」8・489以下のトロイアー軍の集会でヘクトールがかがり火をたくよう部下たちに命じ、薪が集められてかがり火が燃える場面が語られ、ついで9・13以下のギリシャ軍の集会の場面でトロイアー軍のかがり火のことが取りあげられるが(76-77)、このことはトロイアー軍の集会とかがり火の場面と、ギリシャ軍の集会の場面とが同時に進行していることを示す。(松本仁助・岡道男訳注、以下同じ)
同様のことを悲劇について考えてみると、いまAを舞台の上で起こるとするなら、Bは舞台の外で(Aと同時に)起こって、Aのあとで「報告」の形で舞台上の人物に伝えられることになろう。ここでは、AとBが同時に起こった出来事であったことをあとから示すのは可能であるけれども、叙事詩におけるように両者が同時に起こりつつあることを示すのは不可能である。したがって、再現されるのは舞台に結び付けられる部分(すなわちA)だけということになる。

2009-07-27

しんとくまると口頭伝承

坂部恵「かたり」を読んで著者のするどい感受性に感嘆した。
折口信夫の「しんとくまる(身毒丸)」を引き合いに出して森鴎外の山椒太夫の持つ限界を指摘し、柳田国男の構想の真意をあざやかに浮き彫りにしている。
<かたり>というような大きな言語行為の考察にあたっては、送り手、受け手をともに含めたその<主体>は、当然のこととして、個人のレベルをはなれて、より大きな共同体の<相互主体性>のレベルにまで、さらにときには神話的想像力の遠い記憶の世界にまで及ぶ下意識あるいはいわゆる集合的無意識のレベルにまで拡大深化されることがほとんど不可欠の前提となる。しかし、まさにこの領域こそ、さまざまの努力にもかかわらず、現代の哲学・人文科学がなお多くの未開拓といえる部分をのこしている当の分野にほかならないのである。(34ページ)
現在のフランス語やスペイン語にはかたりの時制のなかにさらに半過去ないし未完了過去と単純過去という区別が見られるそうだ。単純過去はギリシャ語など古典語の文法においては通常<アオリスト>と呼ばれるものにあたり、現代語においては文章語にしか使用されることがない。そして、この<アオリスト>は悲劇をはじめとする文学作品の<かたり>において頻繁に使用され、さまざまな用法をもっている。<かたり>の時制は単なる過去というよりは、まさにかたりという独特の発話の態度の相関者としての特有の時間の存在様相にかかわるものであることを示している。(80ページ意訳)
そして、坂部はこう述べている。
わたくしは、かねてから、まったく仮のはなしとしてではあるが、アオリストを、悲劇の舞台上のヒーローやコロスのかたりに痕跡を残す神がかりした巫祝のかたりの時制でもあったと想定してみると、さまざまな用法を持っているアオリストの時制は容易にひとまとまりのとりわけての<かたりの時制>として説明できるのではないかと考えている。(81ページ)
そして、ヴァインリヒの用語にいう<ゼロ段階>と<回顧時制>のみを持ち、<予見時制>を持たないというアオリストの特質が、おなじ<かたりの時制>でも<背景の時制>のほうは、実際のかたりにおいてしばしばきわめて重要な役割を演ずる<予見時制>をもつのと際立った対照をなすと指摘している。
すなわち、アオリストが<予見時制>をもたないということは、いいかえれば、この時制に限って、ヴァインリヒのいう「先行情報に必然的に付随している不確実性」にあずかることがたえてないことを意味すると考えられる。(162ページ)
物語の図柄を際立たせる<前景の時制>としてのアオリストは、この点で他のすべての時制に対して例外をなし、まさに、(むしろ、<回顧時制>の特質としての)確定的な定まった過去の1回的でかつ繰り返し不可能、逆転不可能な出来事を述べることをその特別な役割としてもつ。(163ページ)

坂部恵のこれらの指摘は「他者のような自己自身」(ポール・リクール)を読んだ直後だけに心にしみわたる響きがあった。
私は、かねてから不可能なことをどう表現したらよいのかわからなかったが、ここにヒントがあると感じた。

2009-06-19

中国語の部屋・・・(またしても内と外(4))

サールの中国語の部屋に関する議論でTHE REDISCOVERY OF THE MINDに於いて追記されたこと。
(318ページから)シンタックスは物理的構造に本来固有のものではない、という議論をしているのだ。「中国語の部屋」のもともとの議論の目的のために、私は<コンピュータをシンタックス的に特徴づけることには、何ら問題もなかった>と想定していた。しかし、これはまちがいである。なにか、<本来的にデジタルコンピュータであるようなものがあること>を発見するなどということは、決してない。なぜなら、それをデジタルコンピュータとして特徴づけることは、そのシステムの純粋に物理的特性へのシンタックス的解釈を割り当てる観察者がいて、常にそのような観察者との関係において行われるからである。<思考言語>仮説に適用すれば、いま述べたことは、この仮説が整合性に欠けるという帰結をもたらす。<あなたの頭の中には本来固有の仕方で文であり、しかも知られない文が存在する>ということが発見されるなどということはありえないのだ。そもそも何かが文となるのは、それを文として使用する主体か使用者がいて、彼らとの関係でのみ文となるからである。計算操作的モデル一般に適用すれば、こうなる。コンピュータ的計算操作としてプロセスを特徴づけることは[そのプロセスを実行しているとみなされる]物理的システムを外から特徴づけることである。そのプロセスを計算操作的と見なすことは、物理的構造の本来固有の特性を特定することではない。それは、本質的に観察者に関係した特徴づけなのである。
(中略)<何かが計算操作プログラムとして「機能している」>と言うことは、<物理的出来事のあるパターンが起こっている>という以上のことを言っているのだ。それは、ある主体により、そのシステムが計算操作をしているという解釈が割り当てられることを必要としている。アナロジー的に言えば、自然の中には、椅子と同じ種類の形をした物体が発見されるかもしれないし、それは椅子として使用されるかもしれない。しかし、それらを椅子とみなし、椅子として使用する主体との関係を除外しては、自然の中に、椅子として機能している物体を発見することはできない。
この議論を読んで、カール・マルクスの資本論を思い出した。彼も結局この内と外のことを議論しているんだ。

2009-05-18

内と外(3)

建仁寺と東福寺で勅使門、恩賜門というのを見た。庭園にある壁は内側からは無いものと思って外部世界へ開かれており、外部から来る使者には(方丈という接待場所である)内部への接待の入り口となるそうな。またしても内部と外部という境界の話だ。
お坊さんの説明がはっきりとこういった説明だったか記憶していないが、この説明を聞いていて関係が無いはずのひとつのことに捉われてしまいあとの話をうわの空で聞き逃した。

さっそく家に帰って確認したこと。マルティン・ハイデガー「芸術作品の根源」に次の言葉がある。
開けの空け開けることと、開けたところの内へと整えいれることとは、共に属しあう。それらは真理の生起の同じ一つの本質である。真理の生起はさまざまな仕方で歴史的である。(99ページ)
また、補遺では次のように言っている。(139ページ~)
真理を「確立すること」は、それを「生起させること」とけっして背反するものではない。というのは第一に、この「させる」は、いかなる受動性でもなく、むしろテシスの意味での最高の行為[Tun]であり、「実存する人間が自己を存在の不伏蔵性の内に脱自的に放ちいれること」として特徴づけられた、「働き」と「意欲」だからである。第二に、真理を生起させるの「生起」は、空け開けと伏蔵として、いっそう厳密には両者の一体化として支配する運動であり、あらゆる自己空け開けがもう一度そこから由来するところの自己伏蔵そのものの空け開けの運動なのである。この「運動」は、それどころか、こちらへと-取り-出すこと[生み出すこと]という意味での確-立さえ要求する。この[取り-]出すことは、創作する(汲み取る)という仕方での<こちらへと-取り-出すこと>であり、「むしろ、不伏蔵性への連関の内部では受領することであり引き出すこと(なのである)」。
これらのことで、立て-集め[Ge-Stell]の意味も規定される。現代技術の本質を言い表す主導語として用いられた語、「立て-集め」[Ge-Stell]は、ギリシャ的に経験された<前に横たわらせること>、すなわちロゴス[λογοζ]に由来するのであり、ギリシャ的なポイエーシス[ποιησιζ]とテシスとに由来するのである。・・・と。

2009-04-29

現実の表現と社会の反応

スチーブン・ピンカー「思考する言語」を読んで、その中で指摘されている事実。「論理学や科学で用いられる概念では現実と直観がうまく折り合わないように見える」(上巻156ページ)というのは、言語研究者なら誰でもが感じていることだろう。ただ、それをどういう文脈でどのように表現するかがむつかしい。文学の出番がそこにあるといえばそうなのだろうが、なにやらみもふたもない話にもなる。
ケネス・クラーク「風景画論」で論じられるセザンヌはそれでもまさにこれを実践した巨匠だろう。クラークはこう書いている。
すべて芸術には、自然の外観の選択と支配が伴う。この選択と支配は、芸術家の気質を全部反映させるはずである。セザンヌがあの特徴的な形態を選んだとは、ただ自分の自然観をおもてに表したということである。だが彼はこれらの形態の使用にさいして、自己の意図するものに関する完全な意識を所有していたことは疑いない。(中略)自然主義が幅をきかせた時代にありながら、絵画とは自然に匹敵する秩序ある調和なりと断ずるほどの透徹を所有していたのである。(310ページ)
ピンカーが論ずるように人は、ある概念が世界に存在する実体を指すこともあれば、そうでないこともあるという直観や、世界についての信念が真実であることもあれば、単にそう信じているだけのものでもあるという直観をもつ。人はこうした直観の力を借りてアナロジーが世界の因果構造に忠実であるかどうかを見きわめ、不適切な部分を取り除いて説明として役立つ部分だけを残そうとする。
もちろん、私たちがメタファーと組合せという二つの力をもっているとしても、真実だけを生み出す能力を備えている者は誰一人いない。一人の人間の心だけでは経験にも創意工夫にも限界があるし、たとえ多数で構成された集団であっても、そこで生み出されたものを集積したり選別したりすることは、集団内の人間関係をそのために再調整しないかぎり、ありえない。日常生活上の考えの不一致は、「体面(フェイス)」を重んじる私たちの意識を脅かす可能性があり、だからこそ人は他人と礼儀正しく会話しようとするときには、天気の話や役所の無能ぶり、機内食や寮の食事のまずさなど、合理的な人間であれば誰もが同意するような話題に終始する。もっとも科学や経済、政治、ジャーナリズムなど、知識を客観的に評価することを本分とする領域においては、こうした堅苦しい礼儀正しさに代わる方法を探らなければならない。(下巻219ページ)
堂目卓生「アダム・スミス」で紹介される社会は、こうした人のもつ傾向について社会がどういう圧力をもたらしているかを「道徳感情論」に即して述べている。
世間は、意図したにもかかわらず意図したとおりの結果を生まなかった行為に対して、基本原則が示すよりも弱い賞賛または非難しか与えない傾向をもち、意図しないにもかかわらず偶発的に有益な、または有害な結果をもたらした行為に対して、基本原則が示すよりも強い賞賛または非難を与える傾向をもつ。(47ページ)
アダム・スミスの考えていた社会はおそらくここに理解すべき背景の核心があると思われるが、堂目卓生は次のように説明している。
世間の評価は偶然によって影響を受けるため、胸中の公平な観察者の評価とは異なるときがある。私たちの中の「賢明さ」は、胸中の公平な観察者の賞賛を求め、非難を避けようとする。しかしながら、私たちの中の「弱さ」は、胸中の観察者の評価よりも世間の評価を重視し、また、自己欺瞞によって、胸中の公平な観察者の非難を無視しようとする。そこで、私たちの中の「賢明さ」は、胸中の公平な観察者の非難を避け賞賛を求めるように行動することを一般的諸規則として設定する。こうして、私たちは、一般的諸規則に従う義務の感覚を養う。私たちは、一般的諸規則のうち、正義に関しては、それを法という厳密な形にする。法と義務の感覚によって、社会秩序が形成され、維持される。しかしながら、私たちの中の「弱さ」は、私たちの義務の感覚を弱め、私たちに法を犯させることもある。したがって、現実の社会において、秩序は完全なものにはならない。(102ページ)

2009-03-10

文化ということ

木村敏の「自己・あいだ・時間」を読んでいて分裂病(今日の呼称では統合失調症)などの精神疾患を理解するためには西洋的二元論では限界があるとの記述がある。
すなわち、精神疾患を個体内部の病変とみなさず、個人と世界との関わりの病態とみなしさえすれば、文化と精神病理の間の二元論は不必要になる。そして文化の場と精神病理の場とは端的にひとつに重なり合って、両者の間には相互外在的な規定、被規定の関係ではなくて、直接無媒介的な共根源性が成立するというわけだ。
木村敏によればこれを裏付ける話として日本人の「自然」に対する理解がある。以下そのくだり。(441ページ)
「自然」における「自」の文字に「おのずから」の意味を託した古代の日本人は、同じ「自」の文字に「みずから」の意味をも託した。しかも「自」の文字は、語源的には元来、「起始、発生」を意味する。「おのずから」と「みずから」という一見相反する二つの意味が、ともに「発生」を意味する一個の文字によって表現されえたということは、古来の日本人の自然観を見ていく上で重要なことである。やや図式的にいえば、古来の日本人は自然と自己とをその共通の根源である「発生」の相において共属的に捉えていたということなのである。日本人にとっては、自己と対峙するものとしての自然は存在しえなかった。そのかわり、実生活のあらゆる局面で身の回りにふと湧き出る情感を直接肌身で感じ取った上で、これを自分のほうへ引き寄せて「自己(みずから)」といい、これをものの世界のほうへ仮託して「自然(おのずから)」といっていたのである。自己はそのまま自然に映し出され、自然は自己を染めつくしているといってもよいだろう。
木村敏によれば、西洋と日本における自己と世界との関わり方の基本的構造の違いは、そのままそれぞれの土地に住む種的主体がみずからを取り巻く自然との交渉を通じて、自己の存在を確保していくための形成行為としての「文化」の構造的差異にも、反映しているものと考える必要がある。

これらの記述を読んで想起するのは西洋でも非西洋的な考え方をしていたゲーテの生理的色彩に関する記述だ。ゲーテは生理的色彩が主観に、すなわち眼にまったくあるいは大部分属しているという理解をしていた。
ゲーテ「色彩論」日本語訳注を書いた木村直司によれば、ゲーテにおいて人間と世界、主観と客観は密接な相関関係にあり、主観の中にあるものはすべて客観の中にあり、客観の中にあるものはすべて主観の中にあって、しかも両者は完全に同一ではない。ゲーテが色彩現象の観察にさいして生理的色彩にまず注目するのは、視覚というものが客観的な自然のたんなる反映ではなく、色彩の知覚には眼が活動的に関与していることを強調するためである。(本文第6節、第38節)これによって現象は主観と客観の関係として成立する。(447ページ)

木村敏も西田幾多郎の次の言葉を引用している。(272ページ)
私が汝を知り汝が私を知るとは何を意味するか。私は直観ということを自己が自己を知ることから考えた。そして自己が自己を知るということは自己において絶対の他を認めることであると言った。併しかかる関係は直ちに之を逆に見ることができる。自己が自己の中に絶対の他を認めることによって無媒介的に他に移り行くと考える代わりに、かかる過程は絶対の他の中に私を見、他が他自身を限定することが私が私自身を限定することであると考えることである。私が内的に私に入って来るという意味を有っていなければならない。

そして、木村敏が「和辻哲郎」を引いて強調しているように(上記のゲーテも同じことが言えるだろうが)次の点が重要だ。
和辻の風土論に対しては、実証的・科学的な文化人類学者の間から多くの批判が提出されている。たしかに客観的事実に関する限り、和辻の知識はまだきわめて制約されていたし、現在から見ると不正確な点も多いだろう。しかし、和辻のめざしていた風土理解はそのような客観的・実証的な形のものではなかった。和辻風土学の底を一貫して流れているのは、主観性(ノエシス)としての、あるいはむしろ「間主観性(ノエシス)」としての人間存在の自己理解の場所としての、主観(ノエシス)的風土の解釈学であったのである。比較文化精神医学が、自然科学的精神医学とは異なった本質理解の上に立つ人間学的・現象学的な精神病理学に何らかの寄与をなしうるとするならば、その文化理解が依拠する自然論・風土論も、自然科学的文化人類学とは異なった基盤の上に立つものでなくてはならないだろう。(443ページ)

2008-11-25

内と外(再)

今日、通勤で地下鉄に乗るときに人身事故で振り替え輸送をしていた。振り替え輸送の手順は知らないが、おそらく推測するに並行して走っている他社路線の定期券を目視で確認し、下車駅で出場することができる証明書を手渡して入場させる。一方下車駅では証明書を確認して出場させるという手順だろう。
これらは、駅構内を内側とすれば外から内への入場のルールと外へ出る出場のルールがあれば管理できる。簡単な理屈のように思える。しかし、それだけなんだろうかと電車の中で悩んでいた。
中世の寺院が治外法権の場で無縁所を構成し、政治亡命者や経済難民の両方を生み出していたという伊藤正敏「寺社勢力の中世」は非常に説得力のある書物だが、これは寺院が中というより外というべきだろう。
同様にインターネットはNETが外でNET以外は中ということなんだろうか。

2008-10-21

プロトンの濃度勾配

プロトン濃度の勾配という高エネルギー状態こそが酸化的リン酸化におけるATP合成の鍵であるという化学浸透説を唱えたイギリスのミッチェルがノーベル賞を受賞したのは呼吸という基本的生命の営みを解明した功績によるものだそうだ。(光合成とはなにか「園池公毅」96ページ)電子の伝達自体がATPを生み出すわけではなく、電子伝達によって生じたエネルギーは、いったん膜を隔てたプロトンの濃度の落差という「状態」に変化し、ATP合成酵素はこの状態が持つエネルギーを使ってATPを合成する。これらはプロトン濃度勾配があればATPを合成するが、逆にATPがあってプロトン濃度勾配がない場合、ATPを分解してプロトンを輸送するという離れ業を行なう。ATP合成酵素はATPのエネルギーを利用するプロトンポンプとしても働くのだ。電子伝達系におけるたんぱく質の構造の微妙なところは、その電子伝達する位置が互いにすぐ近傍にあり、物理的にそういった反応が必然的に起こるという状況に置かれているところにある。これらのことを解明した学者の根気には頭の下がる思いがする。

2008-08-15

アンリ・ベルクソン

先日、久しぶりに会った友人との会話の中でいきなりアンリ・ベルクソンの名前が出てきた。長い間読んでいなかった名前がなつかしくて、昨年出版された「物質と記憶」をちくま学芸文庫新訳ではじめて読んだ。
きっかけは外的要因だったが、読みはじめて引き込まれおもしろくてあっという間に読みきってしまった。
100年以上前に書かれた書物とはとても思えない現代最先端の話題が随所にみられ、彼の問題提起がすばらしい分析とともに書かれていて訳者合田正人のあとがきにもあるとおりますます研究の対象としてクローズアップされてくるだろうという気がした。少なくともこの5年間に読んだ書物の中では最高におもしろかった。

2008-08-01

相互浸透

相互浸透という言葉は現在のKeywordとなっている気がする。
先に新田義弘のテクストに関するエントリーを書いているが、同じような記述を最近読んだ司馬遼太郎の街道をゆくシリーズ「近江散歩、奈良散歩」の中で見つけておもしろかった。
司馬さんの友人の東大寺僧正でもあった上司さんが読んだ鈴木大拙の「華厳の研究」に関する説明で、「相即相入」という華厳独自の述語については「インターペニトレーション=「相互浸透」「相互貫通」という一語であらわされているそうだ。
相互浸透という言葉はニクラスルーマン社会学の表現の訳語にも登場するが、バイオテクノロジーの核心部分でも重要な研究対象となっている。イオン化した物質の電子の交換がさまざまな反応をひきおこす点は華厳という時間を超えた思想と呼応するところがあっておもしろい。
ついでにインターネットで検索してみると「会計、監査、社会の相互浸透」というように広く哲学用語という感覚で使われているものがあり、古くはエンゲルスが対立物の相互浸透という概念を述べているようだ。

2008-02-10

平均律

平均律という言葉はたしか中学校で既に学んでいたはずだ。そして、それ以降音楽の記述を見る時などに再々眼にしている。「はかる科学」という書物で橋本毅彦と藤井知昭が書いている平均律のことはこの年にしてはじめて眼からうろこが落ちたと思った。
そして、私が学んだ音楽や音の体系は西洋音楽だということを思い知った。そして、日本古来の音楽や世界の楽曲を聞いていたにもかかわらず、ここに記載されていることにいままで全く気がつかなかった。
現在の12音階がオランダの技術者であり、力学の研究者であるシモン・ステヴィンという人物によって提唱されたものであって、人為的な音階であるということも知らなかった。
私は、一方で物理学の授業では美しい和音の背景には振動数の単純な比があるということも学んでおり、これらのことを同じこととして理解していたのだ。しかし、事実は違った。12音階は単純な比ではなかったのだ。
最近数年の沖縄の音楽がもたらすインパクトはなんだろうと疑問に思っていたところだ。おそらく、平均律という人為的な音階の持つ限界がどこかで破裂するのではないかという気がしてきた。

2007-12-26

テクストという決定不可能な遊動空間

新田義弘の「現象学と解釈学」を読んでいて、文献解釈学の解説に以下の記述があった。(248ページ)。少し長いが引用する。このくだりはいろいろな意味で挑発的な記述と感じたので。

意味の形成体としてのテクストは、世界付着性(Welthaftigkeit)をもつものとして、そのつど他に取り替えのきかない「現に在る(Da sein)」としての固有の個別的性格をもっている。したがってテクストは、構造体としてもつ普遍的な契機すなわち反復可能な性格をもつとともに、個別的統一性としての反復不可能な、一回性の性格をもっている。この二つの契機が契合されることによって、テクストは象徴性の性格を帯びている。象徴は解読されねばならない。すなわちテクストはたえず読者による解読を促すのであり、その意味でテクストとともに、いわば「決定不可能な遊動空間」が与えられるのである。インガルデンはこれをテクストにおける「無規定的な箇所」とよんでいる。テクストは、構造的に意味の補充を必要としているのであり、解釈を介して初めて存在する。あるいは具体化する(インガルデン)のである。ひとことでいえば、テクストは解釈を必要とする形成体である。書かれたテクストは読むことができる(lesbar)だけでなく、読むことを必要としているのである。それゆえ解釈の多様性、意味の多様性は、テクストの構造そのものに由来すると考えることもできる。ここに、意味充足の多様性である解釈の複数性という、テクストに固有のパースペクティブ性が機能するのである。テクストのもつパースペクティブ性は知覚物のパースペクティブ性とは次元を異にしている。解釈は作品に外から付け加えられる余剰ではなく、作品やテクストの構想そのものに必然的に含まれる欠如の補充としての余剰であり、作品の内から促されるものなのである。

この文章を読んで、はじめに感じたのはC言語の構造体、次いでたんぱく質の立体構造、そしてハイデガーの時間論だった。物の持つ「かたち」の重要性はいうまでもないが、このかたちのもつ意味はそれ自体では決定されない。これを見たり、触ったり、周囲の物との相互作用を通じてはじめて意味が生じてくる。解釈の重要性を議論する上記の記述はまさしく、議論の枠を超えた意味を読み取ることのできる記述になっているといえる。非常に刺激的な記述という気がした。

2007-09-04

行動の選択

計見一雄が引用するリベの主張で「非選択が自由意志を支えるものだ」という論文があるそうだと「ノーテンキ」というエントリーに書いたが、このほど読了した酒井邦嘉著「言語の脳科学」において、同じようなことが書かれているくだりに出会った。(同書210ページ)
人間の言語野では、入力制限のためか、それとも言語野固有の原因により、大脳皮質一般の機能が制限されて言語しか処理できないように特殊化していると考えてみよう。機能の一部が制限された方が進化的に高等だというのは、一見無理があるように思えるかもしれないが、実は理にかなっている。それは抑制性の機能を持つ遺伝子(他の遺伝子の発現を制御する遺伝子のひとつ)が新しくつけ加わったためだと考えられるからである。突然変異によって、もともとチューリング・マシン並みの能力を持っていた大脳皮質の機能の一部が抑制されたとする。その結果が文脈依存文法の能力だとすれば、自然言語に最適な計算ができるようになったことが理解できる。
したがって、これら二つの記述から想定できるのは「ノーテンキ」でも書いたように、人間の能力の限界は観察されるよりはるかに大きくて、ただ、目前の局面にふさわしいたったひとつの行動を選択するということのために、考えられるあらゆる可能性が背後でシミュレーションされているということなのだろう。
行動を抑制する遺伝子の存在が多様性の発現の基にあるというこれらの研究は非常に説得力がある。

2007-08-03

内と外

内と外を区別することが生命にとって重要なことであり、かつ医療にとっても解明するべきポイントとなりつつあることが「新しい薬をどう創るか」(ブルーバックス)で述べられている。
生体膜は単なる脂質の膜ではなく、液状の物質を仕切るとともに、特定の物質を透過させたり、外界の情報を感知するなど特殊な機能をもっているそうだ。膜たんぱく質の立体構造分析に対しては最近の20年間に3度ものノーベル賞(光合成、ATP合成酵素、イオンチャネル)が与えられたことから、研究の重要性と難易度の高さが覗える。
そして、ヒトゲノム情報のなかでもGタンパク質共役型受容体(GPCR)は細胞膜を7回貫通する特徴的な分子構造を持った、薬物治療標的としては最も重要なものということだ。ヒトゲノムには約700~800のGPCR遺伝子が存在すると考えられているが、現在までにその中で約150のGPCRでのみ受容体を活性化する物質(リガンド)との対応が見つかっているだけという状態だそうだ。残りのGPCRはリガンド、生理的機能が不明な受容体(オーファン受容体)で、新規の創薬標的となる可能性が高いことから、重要な研究分野となっている。
しかし、膜輸送は生体膜を研究対象としているだけに、現在利用できる測定ツールは放射性元素、光学プローブ、電流測定の3つだけである。これがスクリーニングするうえで非常に手間がかかり、研究スピードの上がらないひとつの原因でもあるそうだ。
ところで、この7回貫通するという表現を見た瞬間、あの有名な「ケーニヒスベルグの7つの橋問題」をなぜか思い出した。何の根拠もなく、内と外を確実に貫通する通路としてGPCRは神秘的な7という数を持っており、一筆書きのように一気に情報の伝達をおこなうというイメージを持った。

2007-07-14

メタファーが言うこと

メタファーが字義的意味とともにもうひとつのメタフォリカルな意味をもつという見解は、デヴィッドソンによると誤りだそうだ。
冨田恭彦「アメリカ言語哲学入門」に紹介されたデヴィッドソンの主張は、メタファーを通常のコミュニケーションの一形態とさえ見ることを拒否している。
デヴィッドソンによれば、メタファーはその字義的意味以上のことは何も言わない。言葉が意味するものと言葉の使用によってなされるものの区別がよりどころとなる。メタファーはもっぱら使用の領域で言葉や文の想像力豊かな使用によって成就され、それらの言葉の通常の意味に完全に依存しているというのだ。
これは、いわば常識を逆転した刺激的な発想だ。これを理解する人間の不思議さが際立ってくるからなおさらだ。

レーモンルーセル

レーモンルーセルという作家の「アフリカの印象」という作品を読んだが、異様な作品だ。
会話がまったくない、生命に対する生の感覚がない、音はあるが、流れる音がない。すべてが絵画的で、読む者に緊張を強いる書物だ。想像力の欠如のような場面でありながら不思議と生々しい。夢に出てくるような場面かというと現実的なところがないので私にとっては夢に出てきそうもない。もっとも夢自体私はほとんど見ないのだが。
これはある意味で実験的ではあるが、小説の形式にはなじまないものではないだろうか。評者の言っているように「神話の創出」というようなものではないだろう。とにかく刺激的でひっかかるところの多い小説だ。

2007-06-19

合理性に関する主張

アリス・W・フラハティの「書きたがる脳」は刺激的で痛々しい書物だ。
彼女の納得している合理性に関する記述。
「以前の私には合理性が欠けていた」ということをこう表現している。
いまのわたしには美的、科学的なインスピレーションと宗教的啓示、さらには精神病の状態には何が共通しているか、以前よりもよくわかる。発作が起こる前には、これらはすべてきちんと区切られて別々に存在していた。わたしはどうやってこの知識を得たのか?本書に記した研究によって---だが同時にわたしの身体が、心が、中脳がそれを知っていたから---わかったのであり、それは以前よりもわたしの皮質に大きな影響を与えている。もちろんこれは科学者の考え方には似つかわしくない。できるだけ以前のようなまじめな考え方をしようと努力しているが、もう自分を完璧に科学者とは感じられず、悲しみに満たされると同時にわくわくする。
インスピレーションにより、内部的でもあり、外部的でもある存在を体験するということが、人の呼吸と同期した営みとして合理的な美しさの獲得に資するというのが彼女の言いたいことのようだ。
すなわち、合理的ということは区別した体系的な知にあるのではなく、納得できる体験があってはじめて合理的な理解につながるということのようだ。
中沢新一の若いころの体験を髣髴とさせる生々しい筆致で、たしかに書きたいことは一気に訪れるのだろうということがよくわかる。

2007-06-07

教育目標

フランク・ウイルソン「手の500万年史」に子供の認識の発達をどうやって促進するかのヒントが書かれている。たいへん参考になる。以下部分的に引用する。(邦訳322ページ、330ページ)
カナダの教育家キーラン・イーガンは「教育を受けた心」のなかで、どんな教育改革戦略も、長い教育史の結果に取り組まざるを得ないと指摘する。この教育史の期間に、3つの教育目標が継承されてきた。
 若者を成人社会の現在の規範と慣例に適合させる必要があること。若者の思考を世界の現実と真実に確実に順応させる知識を教え込まなければならないこと。個々の生徒の個人的な潜在能力の発達を促進すべきであることの3つである。
 イーガンは3つの目標が等しく望ましいことに同意する。そして、教育組織に対する義務として見ると、あいにくと3つの目標はまた相互間に矛盾するという。教育組織は、現代の教育慣行を補強する「三大理念」に固有の矛盾を解決できないと主張している。
 かれはこの袋小路を包囲する方法として子供に対する教師のアプローチを修正し、認識の発達や機能の連続的な順序と階層の両方に順応することを提案する。
 イーガンはとりわけ人間の進化と文化史が、子供の認識の発達を促進する枠組みを提供すると考える。そして、教師は人間の文化が「理解の種類」という形式で蓄積したものを若者たちのために活用できるという。
 イーガンの考えでは、知的発達には「ある人間が成長する社会で使用できる知的道具の役割の理解が必要になる」それぞれの社会で発見される道具は、順を追って高くなる意味で、身体的理解、神話的理解、非現実的理解、哲学的理解、反語的理解という順序になる。これらの異なる種類の理解には、暗に人間の思考能力の進歩が意味されている。イーガンはマーリン・ドナルドの挿話的文化というモデルを、ミメシス文化、神話的文化、理論的文化に割り振りする。だからかれは、われわれが理解のより高い形式に移行するにつれ、より低い形式を捨て去ることはないと提唱する。

 

2007-05-22

語ることと示すこと

命題は記述されるべき事実の経験的内容についてなら「語る」ことができる。しかし、その形式的構造、すなわち論理形式については「示す」ことしかできない。
ウィトゲンシュタインはアスペクト知覚において、われわれは対象の色や形についてなら「語る」ことはできるけれども、他方それに内在する有機的体制については「示す」ことしかできないと指摘している。
事例として、アスペクトの転換に際し、それまでは模写ができてしまえば無用の説明と思われ、また実際そうであったものが、可能な唯一の体験表現になってしまうと述べている。
そして、野家啓一はその著書「科学の解釈学」において、R・ペンローズやR・ドーキンスを痛烈に批判している。
曰く、人間の「自由意志」を量子力学的不確定性によって説明する物理学者や、生物界に見られる利他的行動を根拠に「遺伝子の道徳性」を論ずる社会生物学者などのなかに、われわれはまさに20世紀的な「俗悪さ」の一端を嗅ぎ付けることができると。

恢復期

恢復期についてのアンリ・ボスコの覚書は幸福で健康なイマージュに満ちているようだ。
ガストン・バシュラールの「夢想の詩学」にアンリ・ボスコの「ヒヤシンス」という物語のことが書かれている。
すばらしい文章なので、少し長いがそのまま引用する。
わたしは意識を失ってはいなかった。しかしあるときは、生命の最初の供物、つまり外界からやってきた若干の感覚を摂取していたし、またあるときは内面の実体を食物としていた。それは少しずつ蓄積した稀有な実体ではあったが、新しくもたらされたものからは何も負ってはいなかった。というのは、もしわたしの本当の記憶からすべてのことが追放されたとしても、その代わり、想像的な記憶のなかですべてが途方もなく新鮮によみがえるはずだからである。忘却によって不毛になった広大な広がりの真只中で、あのすばらしく楽しい幼少時代、わたしが勝手に作りあげたのだと昔は思っていた幼少時代が、たえまなくずっと光を放っているのだった。・・・というのも、それはわたしの青春なのだった。わたしのもの、わたしの手で作りあげた青春なのだ。苦しみつつたどられた幼少時代が外側から私におしつけたあの青春ではなかった。
そして、バシュラールは出来事のない生を究めようと言っている。平穏な生、出来事のない生にくらべると、あらゆる出来事は精神的外傷となりかねない。出来事はわたしたちのアニマの、内面にあって、夢想の中でしかよく生きられない女性的存在の、自然な平和をかき乱す男性的残忍さとなりかねないのである。
これらは、恢復期が必要としている幼少時代の夢想と一体となることの重要性を正しく指摘している。

2007-04-27

ノーテンキ

計見一雄の「脳と人間」を読んでいると、私も精神科の医者が勤まるのではないかとの錯覚に陥る。精神分裂病(統合失調症)のさまざまな事例を読んでいて、どこにでもある話だという気がしてくるから不思議だ。計見が書いているように、現代という時代がこの病気に冒されつつあるのかもしれない。
ところで、彼が引用するリベの「脳は運動器官だ」という主張は、大脳皮質前頭前野での運動スキームの形成に関する論文で、行為の意志的決定は用意された行動スキームを、運動野へつなげて実行に移すか否かの選択によるとあるそうだ。そうして、その選択はスキームの<[非選択(Veto・・拒否)]>によるとある。非選択が自由意志を支えるものだという論文らしい。
すなわち、「継続する意志とは継続を止めることを選択しない意志」ということになる。努力するのではなくて、努力することを止めることを否定するという形式が意志の働きとして原型だというのである。
そして、彼が強調するようにここでなにより重要なのは「やろうと思えばできた」というところだ。つまり、ある行動計画はできており、道徳的意識か、規範意識か、実現可能性か等々いずれかの理由により選択されなかったというのだ。常に運動の中ではカウンタープランと引き比べて現実の行動の選択がなされているということを言っている。
そして、ポジティブシンキングは大流行だがカウンタープランを欠いた思考はただのノーテンキだといっている。

2007-03-27

ポリアンナ効果

先日から紹介している中沢新一に加え、梅田さんの話や、小宮山さんの例を引き合いに出すまでもなく、人は肯定的な評価を好む。これを「ポリアンナ効果」と言うそうだ。エリノア・H・ポーターの人気小説の主人公「ポリアンナ」からとられており、おとうさんに教えてもらった「よかった探し」でなんでも喜ばしいことを探す肯定的評価の代名詞だ。これを標榜する人には自らを反対の性格という人もいるが、それだけ社会的に否定的評価が好まれず否定的評価が否定的に(すなわち肯定的評価に)意識されている証でもあるのだろう。誤解を避けるために付け加えれば、ここでは、なんでも「そうだ、そうだ」という人たちのことを話題にしている。別の言い方をすれば「他人志向型」。
クリス・マクマナスの「非対称の起源」を読んでいると、左利きの人に対する過去の社会的偏見は相当強烈であったようだ。1950年から1961年までアンケートにより実施した「言語の土地台帳」という英国リーズ大学の調査では、(質問者は片方の手を見せて尋ねる)「何にでもこの手を使う人のことを〇〇と呼びます」という質問に左手と右手の間にはびっくりするほどの違いがあった。(大半が60歳以上の)聞かれた人のほとんどが、右手を使う人のことを右利きと呼ぶだけなのに、左手の場合には全部で87もの呼び方が記載されているのだ。
これらのことは、同書にも述べられているが「烙印」といういまわしい概念によって社会学的には解釈されている。そしてセンシティブな言葉による表現は、現代の社会では本人がそう感じれば、もしくはそう思えばその言葉は否定的表現となるという解釈が市民権を得ている。これがはじめに述べた否定的評価が否定的に意識されているということの背景にあるのだろうと思う。
これらは、倫理的なものというよりも、私には何というか息の詰まりそうな話である。なにか正しさというものをはきちがえているような気がしてならない。付和雷同を排し、主体的意見を尊重するといえば聞こえはよいが・・とりあえずという判断にすぎず、熱くなって噴出してくる自分の意見ではないところが寂しい。

2007-03-24

信ずるところを進むということ

梅田さんの記事と、対談した小宮山さんの卒業式告辞をみると同じことを言っている。「信ずるところを進む」ことの重要性だ。そして、梅田さんのBLOGへの反響を見てもおそらくこれは大半の人が(とくに日本人が)賛同する精神的な対峙の仕方なのだろう。
私は、この双方の話を見ていてこれは技術者の世界の話ではないか、あるいは企業でいえばメーカーの話なのではないかという気がしている。戦後の60年間、日本の科学技術研究に関する評価の体制が特に硬直化しており、地道な研究はなかなか評価されにくい土壌があった。これがこの二人の話の背後にあるのではないだろうか。大学という組織、大企業の組織の中で個人の研究や開発意欲を削ぐさまざまな障害が多数あったことと無縁ではないだろう。特に指導的な立場にある教官の権威は絶対だったのだろう。インターネットの時代になって、今世紀に入ってから、欧米の特に米国の個人主義的な自由な研究の空気が充満してきてはじめて、これまでの研究のやり方では窒息すると誰もが感じるようになったのだろう。そういう意味ではこの二人の感覚を否定するものではない。
ところで、そういった歴史の背景を勘案しても、小宮山さんの告辞にある二つ目の話、俯瞰するということのほうが私には一層重要に思える。自らの位置を確認し、定位することだ。これは素直な性格と他人の話をどれだけ理解するかという社会的センスが問われる。身近な指導教育がなければちょっとしたこともわからない。しかし、少し様子が分かってくると、どうも真理は別なところにあるのではないかという疑念が沸いてくる。これまでは情報のソースが限定的だったのでなかなか障壁を突破できなかった。書物や論文ではスピードが限られていたといえるだろう。大量の書物を読んでいても著者の言いたいことをどれだけ真剣にわかろうとしているかという努力にもよったのではないだろうか。
日本の産官学の研究現場ではおそらくこれらの情報障壁のことは誰しも直感的には問題だと従来から気がついている。しかし、日本の社会の研究や開発の構造が情報の横の連携を許さない構造であったということなのだろう。現在はインターネットの時代になって、全ての知識が全世界同時にフラットに共有されるという驚異のニューロンもどきの人類の頭脳統合が実現しているのだ。われわれはその頭脳の真っ只中にいる。アイザック・アシモフが40年以上前に「ミクロの決死圏」として描いたSF小説は今現実になっているのを誰も気がついていないのだろう。我々はまさしく神経腺維の中に生存しているのだ。すなわち、その気になればわれわれは全世界の必要な知識を相応の確実さで入手できる状況にある。

2007-03-08

偉人の旋毛曲り

寺田寅彦は偉人のつむじ曲がりということで「科学上における権威の価値と弊害」を論じているが、これを読んで先日の中沢新一の議論を思い出した。結局、科学はつむじ曲がりが輩出してそれまでの権威を否定することで一層科学らしくなっていったと言えるだろうが、中沢であればこれは単にバランス感覚を回復する正常な反応があらたなものの見方をもたらしたにすぎないと言うのではないかと思った。偉大なつむじ曲がりはそういう意味では無意識にバランスをとる天才だったともいえるだろう。

2007-03-06

勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜き

中沢新一の「対称性人類学」によれば、対称性の論理にもとづく社会では「勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜き」といったタイプの人々に対し警戒心を抱いていたと記述されている。その人たちは自分が獲得した富を、自分のために蓄積し、自分のためにだけ消費しようとする傾向があったからだ。神話ではこういう人々を貪欲な動物に喩えて、軽蔑する話がたくさんある。そして対称性の社会の倫理は必死にこの「勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜き」たちの出現を抑えようとしてきたが、資本主義の本格的な稼動が準備された12世紀~13世紀の西欧社会では、あらゆる抵抗をはねのけて、蓄積のための生産や交易をめざす「勤勉な」人々の活動が浮上してくるのを、もう誰も抑えられなくなっていたというのだ。本源的蓄積は実際暴力的手段を通じて実行され、贈与経済のもたらす暖かい共同社会に生きてきた人々は自分たちの住んでいた土地から追い立てられたと分析されている。
そしてまた、中沢は西欧哲学の本質は形而上学であると批判してハイデッガーを引き合いに出し、形而上学からの脱却を目指すべきだと主張している。すなわち、人間はたしかに理性的生物であるが、だからといって必然的に形而上学的生物であると決めつけるのはまちがっている。カントが言うように、形而上学はたしかに人間の本性に属しているだろうけれども、そういった本性があまりに支配力を拡大しすぎると別の理性が働いてきたこともまた真実である。人類はこの意味で進歩したのではなく、形而上学の本性を全面的に発達させ始めたにすぎないのではないかと問うているのだ。

2007-01-27

位置とドメイン

かつて南方熊楠が没頭した真正粘菌の研究から発展し、古細菌の研究へ至って生命科学の分野では最近めざましい成果が出ている。特に3つのドメインが地球上の生物の系統樹として存在し、これ以外の生命は存在しないという発見は特筆すべきだろう。 ひとつはわれわれ人類の含まれる真核生物、二つ目は原核生物で真正細菌と古細菌に分かれる。古細菌(アーキア)は結局現在の生命全ての始原にあり、全く独立して現在に至るまでその強力な生命力で生き抜いている。おそらく他の2つのドメインを占めている生物が滅亡してもアーキアは生き残るだろう。われわれ人類が生命の中で最も優れていると勘違いし、驕っているのをあざ笑うかのようにアーキアのドメイン(生存領域)は拡張されるだろう。つまるところ、この地球上はドメイン競争の場なのだ。
人類が愚かにもその領土紛争を繰り返している間に、インフルエンザや癌、さまざまな感染症は全ての哺乳類をはじめとする生命の存在領域を奪うだろう。ツボカビが爬虫類の生命を簡単に奪うのも同様な傾向だろう。
生存できるわずかな隙間、そのニッチになんとか生き延びるために人類は苦闘している。インターネットでドメイン競争をしているうちにそれぞれのドメインにあるサイトはウイルスで汚染されているのだ。インターネットの世界と自然の世界のアナロジーは尽きるところがない。そしてこれらを表現する言葉が正しく事態を表現している。だれが表現を考え出したかはわからないが言葉の不思議な力が事態を理解可能にしている。
2チャンネルでひろゆきの自演と思われるドメイン差し押さえが騒がれているが、ドメインを世界規模で考えるよい機会だと思う。インターネットは鳥インフルエンザと同様に国境がない。そこに本質があると言えよう。ドメイン競争になじまないのだ。インターネットを使っている人類は名前に力が宿っているような錯覚をもっていると思う。長期的に見れば力の源泉は局所的なエントロピーの減少にすぎないから、名前にこだわるドメイン競争は無意味といえるだろう。

2007-01-13

エンタングルメント

理化学研究所が発表した量子コンピュータの要素技術となるべき回路の構成の内容は実に不思議なものだ。こういった知恵が出てくるためには量子状態と古典的状態にかかわる深い理解が必要だと思うが汎用性のある実用的な回路設計が出現したことで今後の量子コンピュータへの応用が期待される。
特に特定の量子状態の操作は、3つの微小な超伝導デバイスにより構成され、3つの超伝導電子対の方が、電子1つ1つの場合よりも簡単となるそうだ。こうした「巨視的』な量子状態を制御できれば、量子物理学を特徴づけるエンタングルメント(あたかも3つの箱が1つの構成物の一部であるかのように、同じ情報を共有するという事態で、それぞれの箱が1つの量子的な粒子としてふるまっている)のような現象を巨視的なレベルで検証することが可能になるということだそうだ。

2007-01-09

オブジェクティブリダクション

ロジャーペンローズのオブジェクティブリダクション(OR)に関する議論は重ねあわされた二つの時空構造のうちどちらかが支配的になり、状態はどちらかの古典的時空構造へ落ち込む瞬間に関するものだ。分岐しつつある時空構造の内部的な幾何学が四次元時空計量のうえの「シンプレクティック測度」として表されるということらしい。分裂は時間と空間にまたがる分裂であり、絶対単位系でS=Eの式で与えられる。(Sは分裂の大きさ、Eは重ねあわされた時空構造の間の差に対応する重力場の自己エネルギー)
ペンローズの主張の核心はこれらの量子力学的スケールが古典力学的スケールまで拡大するという点だ。われわれ人類を含む生物全てに等しく意識をもたらすマイクロチューブルに関する洞察はたしかに魅力にあふれる主張といえる。

2007-01-01

言行不一致の必然

わが国の首脳は言行一致を目指すと言ったようだ。
しかし、いろいろと対立することの多い認知科学と精神分析でめずらしく意見の一致を見ているのが「人間の心は一様ではない」という点だそうだ。(吉田信彌「事故と心理」)
近代民主主義では言行一致は徳目であるとともに前提でもある。ところが、心は一様ではないとの人間観は、言行不一致ということである。明晰な自覚のもとで発した言葉でもそれと乖離した行動を人はしてしまう。うそをつくわけではなく、そう行動せざるをえない一面が多々あるというのが、精神分析を含む人間に関する近年の研究が達した一つの結論だそうだ。
昨年の交通事故の激減はこれらの研究の成果のひとつともいえるだろうが、日頃厳密に振り返ることの少ない自らの行動を考えても、そうなんだろうなという感想と、しかしそれでも目指すべきは言行の一致だという思いとが交錯する。

2006-12-10

光定位運動

黒岩常祥の「ミトコンドリアはどこからきたか」を読んでいると、葉緑体が行う光定位運動に関する記述がある。葉緑体は光が弱いと細胞内のどの細胞内小器官よりも細胞表層に近くなるように移動運動をする。また、光が強いと自身が方向転換をし、最も効率よく光合成をするように位置を変えるそうだ。1999年にはわが国で定位運動の研究により、葉緑体はアクチンケーブルを使い、ミオシンの手助けで運動していることが突き止められているそうだ。
色素体を持った真核植物は基本的に光があれば独立栄養であり、動く必要がない。色素体の持つ機能は植物細胞の生存に必須ということがあきらかになってきているらしい。

2006-11-01

排除の傾向

人のもつ他人排除の傾向は、なら転び八起きさんのBLOGに書かれた「アリアドネからの糸」の下記のくだりにみごとに記述されている。
「社会も精神医学も自戒するべきは、傷ついた人に向かうに当たって、それ以前の性格や素行や生活態度、あるいは外傷後の精神医学的以上のほうを、外傷後症候群より優先させてしまいがちなことである。すなわち、犠牲者をもう一度犠牲者として社会から排除しがちなことである。これは一部は人間が理由づけを行うことや因果関係を求めることで安心する動物であることからくる。われわれは理不尽に直面する勇気が必要である、それが人為的なものであっても、そうでなくても。われわれには自分がみたくないものを社会から排除する自然的傾向がある。」(中井『アリアドネからの糸』みすず書房、1997年、161頁)
理不尽に直面する勇気を持つことが真のやさしさといえるだろう。
そういえば、現在東大総長をしている小宮山さんによると、学生には毎年
①本質を捉える知
②他者を感ずる力
③先頭に立つ勇気
の3点を要求しているそうだが、これなども真のやさしさが履き違えられている世の中への警鐘であろう。

2006-09-24

色に関する不思議はゲーテの予想を超えてきているのではないだろうか。
35億年前にたった一度だけ生じた二つのカタラーゼの結合という偶然は、環境条件に対する耐性をもたらし、シアノバクテリアを今日まで生存せしめた。そして全ての生物、LUCAの子孫を光合成のシステムの下にこの青い地球上に繁栄させるもとになったというのだ。われわれ人類をはじめとする動物のもつ血液の中にもその環境条件に関する耐性は受け継がれている。その耐性のもとは色素であり、紫外線、放射線の厳しい環境をくぐりぬけた歴史が解明されてきている。NICK LANEによる世界を構成する酸素という書物「生と死の自然史」は色の持つ不思議を解明していく過程でこれまでの科学の常識を覆し、古くからの言い伝えの中に真実があるということを改めて思い知らされる書物だ。

2006-08-10

テクスト

マークポスターの1990年に書かれた「情報様式論」では既に15年以上前に現在の事態を予告するかのような議論がなされていた。
Dominick LaCapraによる用語「テクスト性」はデリダが最もよく使う用語だそうだが、<「制度化された痕跡」一般のネットワーク>として記述されているらしい。デリダが「テクストの外」には何もないと書くとき、彼は単に書物の性質ではなく、「経験一般」の性質を指す用語として使っている。
マークポスターはこれらのテクストを転覆する試みであるデコンストラクションが、部分的には主体のさまざまな形態とコンピュータエクリチユールとの関係を明らかにするために有用であり、またこのデコンストラクションの能力がその現在の実践の限界を越えて分析の視野を広げるような一般性を与えてくれると論じている。
これは非常に微妙な議論だし、テクストの否定をテクストでは行えないという現実を見据えた話だ。テクストで育った私の世代ではある一瞬、テクストの現前を当然視していた自分を否定する鏡像をコンピュータのモニターに発見してぞっとしたという経験が必ずあるはずだというわけだ。

2006-05-20

重力と加速の力

重力に従った自由落下の結果、重力場は無いのと同じといえる。これははたしてそうなのか。内井惣七の「空間の謎、時間の謎」を読んでいてバーバーの発見と書かれている次の話に素朴な疑問を持った。
以下はその引用。「関係説による古典力学の再構成で明らかになったように、宇宙全体の運動を決める法則がわかれば、距離の測定によって時間がわかる。(中略)究極の時計は宇宙全体の運動だ。(中略)宇宙の運動は、プラトニアの測地線から決まり、プラトニアには時間軸がないのだから、結局理論的な時間は消去できる。」
距離の同一性から時間の同一性が出るということがバーバーの主張のようだ。
自由落下ということがどういうことか、あらためて考える必要がある。自由落下は運動か、時間に中立か。わからない。
もっとも素朴な疑問として同じ本に書かれていること「たった400年前の関が原の合戦の写真は存在しないが、200万年前のアンドロメダの写真は存在し、リアルタイムで見ることができる。」過去は過ぎ去って存在しないということの意味を考える必要がある。
日本では柳田国男が空間を手がかりにして時間を考えようとしていた。福田アジオの意見にも耳を傾けたい。

2006-04-18

かたる

カタルという語の意味について大野晋の考えでは平安時代に4つの使い方があった。
1、内密のことを、秘密を相手に打ち明ける。
2、相手の知らない状態、内情を報せる。
3、事柄の成り行きを、順を追って話す。
4、作為的な言葉を使う。
これらの分析はハイデガーがホメロスの表現にオデュッセウスの覆蔵性を見た記述を想起させる。
かたるという語の背後には人類の根本的な問題が存在している。

2006-04-02

天体観測で暗号鍵共有

天体観測で暗号鍵共有という特許はコメントにもあるとおり「何時何分何秒からの信号を使ってね、ってのを何らかの方法で共有せにゃならんので、結局公開鍵暗号にある程度依存することになるんでしょうね。」と私も思った。ところが、回答では「OTPの場合、「何時何分何秒からの信号を使ってね」に相当する情報は、公開しても安全性に影響しません。(乱数表自体は公開してはまずいですが)逆に、乱数表が公開された状態で、「何時何分何秒からの信号を使ってね」に相当する情報を隠しても、通常は、簡単にクラック可能ですね。」ですと。
しかし、乱数表の情報源である天体観測データの基準が公開されても安全性に影響しないというところに矛盾が潜んでいる気がします。よくわからない。

2006-03-26

息の長いHTML

息の長いHTMLという考え方に改めて神崎さんの思考の鋭さを垣間見ました。W3Cにかかわっている人は当然このような考え方をベースに活動をしておられるのでしょうが、素人の私などには非常に新鮮で時間を超える仕組みはなにが必要かを改めて考えさせられました。
これは、つまるところグーテンベルク以来の文字資産(画像も含めて記述されたもの)は普遍性のある規準に乗せないと時間の試練に耐えられないということを言っておられると思います。
一方、DNAのアナロジーで「歴史の事実」というものは存在せず、あるのは現在における解釈(過去の解釈)の積み重ねだという考え方へ歴史哲学はシフトしていっているようにも思われます。この2つの考え方の折り合いがインターネットの世界では非常に重要になってきているという思いを改めていだきました。
同様の問題は結城さんの昨日のBLOGで「でもC.S.ルイスはそれを書かない。書いてしまったら、その物語を制約してしまうから。それと同じように、私たちのこの世の歴史全体が表紙に過ぎないような物語が、私たちの人生の先にある。」と書かれています。一方では書こうとしている、一方では書くことを拒否している。究極の矛盾と思えます。
私の理解は現在という瞬間だけで消え去ってしまうということで(口頭でその場限りで)よいのではないかということです。

2006-03-05

梅の花(大阪城梅林)
今日は穏やかな日和で大阪城の梅林を見にいきました。大変な人出でのそのそと進みながらやっと写真をとりました。
知人に出会ったりして楽しい1日でした。

2005-12-01

顔と表情は分離できるのか。
能面の意図。
そもそも顔とは表情ではないのだろうか。表情はまさに今、目の前で生きている人そのものだ。鏡の前であれば、自分の顔は生きている自分だ。生きているということが表情の真実であるし、表情のない顔はありえない。能においてもさまざまな表情の在りようを表現する究極の手段に能面が機能を発揮する。
表情の豊かさはまた、目の前の人の関心が豊かな周囲の環境、社会へ向いていることを示している。生きているということの証しが表情に表れる。

2005-11-30

制作するということ

ものをつくる、制作するということは言葉で考え、記述することではない。ひとはものをつくるときに、場合によっては道具を使う。しかし、道具を使うことで経験をどうにかすることができるものではない。経験はコントロールできるものではないから。
そして、ものをつくるときはどんなものができるか本人にもわからない。やってみなければわからない。科学するということはこの「やってみてわからないこと」に近い。
できたものを見てあれこれ考えたり、評価したり、利用したりするのは第三者だ。もしくは、自分であっても既に制作したときの自分ではない第三者だ。ここに行為のもつ不思議な力がある。

2005-11-26

がまんする

がまんするということは夢をもっていることと同義だ。うまくいかない事態に遭遇したとき、こんなことでは終わらない、へこたれないという意味で自らを励ますときと、どうせどうのこうの言っても同じ結果だというあきらめのときがある。そして、がまんという言葉の語感には積極的な響きがある。思いを内に秘めて、次なるチャンスを待つという意思がある。集中力を高め、その場で対決せず、じっくりとときを待てる余裕がある。

2005-11-08

想い出

想い出はどれだけ古くても今という時をきざんでいる。
今、目の前に想い出が現前すると想い出は想い出でなく、現実の出来事としてたちまち姿を現す。年寄りが想い出ばかりを繰り返し話すのも、今、この時に目の前に想い出の楽しい一瞬が現前するのを夢見て話すのに違いない。夢の夢たる所以もそこにある。